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アルタクセルクセスの王宮址遺跡

アルタクセルクセスの王宮址遺跡

考古学・歴史日記01年


2002/01/17(木) Persepolis

 今日は夜講演会を聞きに行った。題目は「ペルセポリス」。イラン人も含め、かなりの客が来ていた。
 ペルセポリス(ギリシャ語で「ペルシア人の街」)はアケメネス朝ペルシア(紀元前550~前331年)の宮殿であった遺跡で、現代のイラン南西部にある。紀元前500年頃にダレイオス(ダーラヤワウ)1世によって建設が始まり、後継者たちにより様々に手が加えられたが、紀元前331年、マケドニア(現在のギリシャ北部)のアレクサンドロス3世(いわゆるアレクサンダー大王)の軍勢によって放火され、破壊された。19世紀以降、ギリシャやローマの歴史文献でしか知られていなかったこの遺跡がヨーロッパに紹介され、1930年代にアメリカ隊による本格的な調査がなされ、現在は世界文化遺産に指定されている。
 今日の講演者のハイデマリー・コッホ教授は我が大学の教授で、世界的にも古代ペルシア研究の第一人者である(日本に居たときから彼女の名前は知っていたが、ここに来るまで自分の留学先に居るとはうかつにも知らなかった)。今日の講演は一般向けのいわば入門編だったわけだが、歴史文献と建築・美術史学の両方に通暁した彼女ならではの知見もあった。「帝都」としての威容とおのれの権力を誇示しようとする大王たちの意図への洞察は彼女ならではのものだろう。

 アケメネス朝は西はギリシャから東は今のパキスタンあたりまで、いわゆる「中近東」全域を支配した世界最初の大帝国である。第三代の王ダレイオス1世(彼自身は簒奪者であった可能性が高い)は広大な帝国を統治する様々なシステム・機構を考案し、実行した。「皇帝・征服者」というと上記のアレクサンドロス大王や中国の始皇帝が思い出されるが(二人ともダレイオスより数百年後の人)、アレクサンドロスの「東西文化融合」政策や始皇帝の施策の全てはこのダレイオスが先んじて行っている。彼らの中途半端さに比べれば、ダレイオスはまれに見る成功を収めたというべきだろう。
 その歴史的重要性の割には、この帝国はあまり注目も研究もされていないように思う。ペルシアというと、どうしても「民主主義の元祖」であるギリシャ人による記録を通じての、アジア的専制国家・侵略者・退廃的というイメージがつきまとっている。もちろん古代ギリシャ文明の現代への遺産は否定することは出来ないだろうが(特にヨーロッパでは)、どうも現代の我々は古代ギリシャ人の「宣伝」に惑わされすぎていたように思う。アケメネス朝は王の碑文と行政文書以外にほとんど記録を残していないことも一因だろうけど。
 アケメネス朝と同時代の人を挙げておくと、ギリシャではソクラテスやプラトン、インドでは釈迦、中国では孔子などがいる。哲学者ヤスパースが「基軸時代」と呼んだ、現代に続く人間の思想が世界中で花開いた時代だった。ペルシア人たちはあまりに現実的過ぎて、こういう思想を残さなかったのかな(一応ゾロアスター教という国教はあったが)。ちなみに日本は縄文時代の最末期にあたる。帝国はおろか、「思想」なんてものは陰も形も無かった(いやあ、そりゃ縄文人にもあったかもしれないけどさ)。

 今日1月17日は阪神・淡路大震災から7年目にあたる。僕は震災の二ヶ月後くらいに、帰省の途中、神戸の町を歩いた。まだ瓦礫があちこちに残っていた。今は(少なくとも外見的には)見事に復興している。
 ペルセポリスはもう2300年もの間、廃墟になっている。廃墟となった神戸に立つのは胸の痛む体験だったけど、近いうちに、今日スライドで見たペルセポリスのあの巨大な廃墟に立ってみたいと思う。


2002/01/06(日) Mannheim

今ヨーロッパは寒波に襲われている。ドイツは連日気温は零下だし(金曜は特にすごかった)、ギリシャ、トルコでは寒さで死者が出ているらしい。トルコ東部では雪で孤立する村がたくさんあるらしい。去年は雪不足で夏は水不足に見舞われたのに。イスラエルで唯一スキー場のあるヘルモン山(ここはもともとシリア領だったりする)でも雪が降っているらしい。

そんな寒さの中、物好きにもマンハイムに行ってきた。ここから電車で2時間半(うまくいけば、の話。今日は遅延がやたら多かった)、人口約30万、ライン河沿いにあるドイツ南西部の町である。かつての選帝候の宮殿があり、ドイツには珍しく?、街路は碁盤の目のように区画された計画都市である。マンハイムで売ってたガイドには「ドイツのパリ」とか書いてたけど、それは言い過ぎではないか?世界で最初に自転車が走った街、とも紹介されてたな。
そうした歴史のある街(といってもたかだか17世紀以降の話だ)の割に、この街には見るべきものはほとんど無い。戦災にあったという事もあるし、開発が進んで古い町並みが壊されたということもある。せいぜい宮殿と博物館くらいか。
 
ここに行ったのはその博物館で行われている特別展「1000年頃の中央ヨーロッパ」を見に行くためであった。西暦紀元1000年頃の中央ヨーロッパについて、歴史・美術・考古の面から展示している。
展示自体は悪くなかったが、いかんせんでかすぎて、盛りだくさん過ぎる。僕は博物館にかかわる学問をやっているわりに(博物館でバイトだってしていた)、根気良く展示解説とかを読んだり出来ないほうで、ほいほい歩いて行って面白そうなものだけじっくり見る。あとは展示図録を買って済ませる、といった横着者である。というわけで今日も根気が続かずかなり飛ばし見した。それでもかなり時間がかかった。
展示図録を買ったが、これがでかい分厚い本の三冊組みで、しかも結構高い。帰りはこの本の重さで腰が悪くなりそうだった。

僕はやはり考古学の展示のほうに目が行ったが、うーん、この当時のヨーロッパはやはり後進地帯だったのか、と思わざるをえない(よく中世を「暗黒時代」なんていうけど、中世がどん詰まりの「暗黒」なんていうのはヨーロッパだけだ。他の地域、とりわけ中近東と中国では技術や学問は進歩しつづけていた)。昨年の年末にフランクフルトの博物館で見たローマ人の生活や技術のほうが豊かに見える。
ヨーロッパの中近東への主要な輸出品の1つが奴隷(戦争捕虜など)だったというのも分かる気もする。他に売るべきものは石ころとか木材とか、原料ばかりだった。日本もこの時代は中国の端っこにしがみついてるような国だったわけだが、奴隷を輸出するなんてことは無かったんじゃないかと思う(日本の主な輸出品は農産・海産物など。工芸品では唯一、日本刀が挙げられる)。この時代は中近東や中国で貨幣経済が発達し、ヨーロッパや日本がその世界システムに組み込まれて行った(「文明化」した)時代だ。というわけで結構似ている面があったりする。
まあそりゃ日本に比べれば、ヨーロッパ中世でも宮廷や教会美術とかみれば絢爛に見える。あの時代のヨーロッパの農民には生まれたくないなあ。 

この展覧会は昨年から、ポーランド、ハンガリー、スロヴァキア、ドイツ、チェコを巡回している。実はこの展覧会、かなり明確な政治的メッセージがこめられている。
紀元1000年頃といえば、ハンガリーやポーランドに王権が成立し、またキリスト教が中欧に定着していった時期でもある。展覧会でも強調されていたが、それまでユーラシア・ステップからやって来る騎馬民族(マジャール=ハンガリー人もその1つだった)や東ローマ(ビザンツ)帝国の間接的な影響下にあったこの地域に、独立した「中央ヨーロッパ」という、比較的似た文化を持つ1つの枠組みが出来つつあった(むろん一方で政治的な独立・他との区別化のために王権やら教会やらが充実していったわけだが)。
もちろん、その成立には神聖ローマ帝国=ドイツの影響は計り知れない。これらの国々での知識階級の会話はドイツ語になったし、のちには政治的にもチェコ、スロヴァキア、ハンガリー、そしてポーランドの一部はドイツもしくはオーストリアの支配下になった。第2次世界大戦後、一時的に(40年間ほど)、ドイツの一部を含むこの地域はソ連の影響下に入り「東欧」とされたが、ソ連の崩壊と共に再びドイツの影響力が大きくなり、「中欧」が復活しつつある。ドイツはかつてのような「生存圏」を求める拡張主義的な政策をやめて、これらの国々と協調することで自国の国際的影響力を高めようとしている。ほっておいてもロシアの影響力無き今、ドイツの影響が及ぶわけだし。
展覧会ではあからさまには言ってなかったけど、紀元1000年前後のドイツによるキリスト教の東方への教線拡大、これらの国々の「ヨーロッパ化」(ロシア・ステップ地域や東ローマ帝国=ギリシャ正教からの切り離し)と、現代(紀元2000年前後)のドイツ主導のEU東方拡大政策、具体的にはチェコ、ポーランド、ハンガリーのEU加盟促進(NATOには1999年に加盟済み)を比較しているように思えてならなかった。

ハンガリーはやはり面白い。ヨーロッパに現れて最初の頃のマジャール人の道具なんてモンゴル人とあまり変わらない(今は混血して完全にヨーロッパ人化してるけど)。 
あと、少し陰が薄いのはスロヴァキア。スロヴァキアが「独立国」だったのは9世紀のメーレン王国と、ヒトラーによるドイツの傀儡政権(1939年~1945年)、そしてチェコと分離して出来た今の国(1993年~)だけである。その他の時代はずっとハンガリーの支配下にあるか(ハンガリー本土が16世紀にオスマン・トルコに占領されたときは、ハンガリー王国の首都にもなった)、第一次世界大戦後のチェコ・スロヴァキア合邦国家だった。1998年までは民族主義的色彩の強いメチアル政権だったが、統合ヨーロッパの中で再び陰を薄くしていくんだろうか。元来政治的求心性の希薄だったこの民族の独自国家がどうなっていくのか、見所である。


2001/11/30(金) Sopron

 今日はとにかくジョージ・ハリスン(58)死去のニュースと雅子さま(これどうしてマスコミは「さま」を漢字で書かないんだろうね?)出産のため入院、のニュースばかりだ。人は去り、また来たる。
 これらのニュースは手垢がついてるので特にコメントしません。

 今日は夕方大学で講演があった。テーマはショプロンにおける発掘。ショプロンというのはハンガリーの北西隅にある小さな町だが、そこの発掘についての講演。この地にもケルト人は居たのである。もっとも、講演自体はさほど面白くなかった。

 ショプロンは小さな町だが、1989年の東欧革命で大きな役割を果たした場所だ。
 1989年8月、もともと保養地として東欧共産主義諸国の人々に人気のあったショプロンに、東ドイツ市民が「ピクニック」に集まってきた。西側であるオーストリアとの国境(「鉄のカーテン」)を、東欧諸国ではいち早くハンガリーが開くらしい、という噂を聞きつけて集まったのである。ハンガリー国境守備隊は東独市民が越境してオーストリアに逃れるのを黙認した。東独に40万、ハンガリーに6万もの駐留軍を持っていたソ連も、ハンガリーのこの決定を黙認する。
 この「ショプロン・ピクニック」によって「ベルリンの壁」を始めとする東西ドイツ国境は意味が無くなり、その年11月9日の「壁の崩壊」及び翌年の東西ドイツ統一に突き進むことになる。

 今日の講演を聞いていて、ハンガリー・チェコ・ポーランド・スロヴァキアなどの諸国は、経済的にもそして学問の世界でも、ドイツの強い影響下にあるなあ、と感じた。むしろ第2次世界大戦後のソ連による40年に及ぶ軍事的覇権の方が異常事態だったのか(そしてそれはほとんど何も残さなかった)。
 ドイツがEUの東方拡大に躍起になるのもよく分かる。それだけドイツの発言権が大きくなるんだから。これらの国々は過去の戦争ではドイツに侵略されっぱなしなのに、日本をめぐる国際関係みたいにならないのは、やはり「文明」のなせる業か(ちなみにドイツはこれらの国々に国家賠償は一切していない)。
 日本はかつて「ユーロ」を参考にして「円ブロック」を考えたこともあったようだが、今の体たらくではもはや考えられない。ソ連の軍事的覇権同様、日本の経済的覇権もうたかたの夢だったんだろうか。まあもとの姿に戻りつつある、と達観することも出来るだろうけど。

 ハンガリーはアイルランドとならんで昔から興味のある国だ。ヨーロッパの中でも異質な、中央アジア遊牧民の末裔、そして非印欧語族の国。ハンガリーの考古学界は最近はかなり「東向き」になっているらしい。自分たちの新しいアイデンティティを模索しているのか(もちろん「ヨーロッパの一員」というのがもっとも強いだろうが)。
 まだ行ったこと無いが、ハンガリー人の知り合いならいる(今日の発表者は僕の知り合いの同僚みたいだ)。ぜひ近いうちに行ってみたい。


2001/11/18(日) イベリア半島

 今日も大学で講演会があり、午後はずっと講演を聴いていた。
 今日のテーマは「イベリア半島(スペイン・ポルトガル)の考古学調査」である。旧石器時代から鉄器時代(紀元前2世紀くらいまで)までに関する五つの講演があった(もっとも、最初の二つは午前中寝ていたので聞きそびれた。昨日の夜は腹痛でよく寝れなかった)。

 「ピレネーより南はヨーロッパではない」と喝破したのはナポレオンだったと思うが、ピレネー山脈によってフランスと隔離されているイベリア半島はどちらかというと中近東に近い、乾燥した風土をもつ。僕はスペインに行ったことはないが、なんとなくトルコに近い風景ではないかと想像している。
 イベリア半島は山がちだが、その分鉱物資源に恵まれ、また山が海に迫る地形のため良港にも恵まれている。その資源を求めて古来多くの民族が交差したのはトルコに似ている。トルコがアジアとヨーロッパの掛け橋なら、イベリア半島はアフリカとヨーロッパの掛け橋だろうか。
 今日の講演会では、そのうち紀元前一千年紀初頭のギリシャ人及びフェニキア人によるイベリア半島への植民と、紀元前5世紀頃のケルト人の流入についての話があった。航海技術に優れたギリシャ人は地中海沿岸に植民都市を建設して、地元住民の提供する穀物や鉱物資源を入手し、見かえりに美術・工芸品を提供した(現代の日本がやっていることと本質は同じ)。一方ケルト人は,傭兵・流民・奴隷・労働力など、いまふうにいえば「経済難民」として、今のフランスあたりから移民してきたらしい。現代のスペイン人に金髪の人が結構いるのは、ケルト人のなごりなのかもしれない。

 以下は今日の講演に関係無いが、続けて書く。
 その後はイベリア半島はカルタゴ、ローマ帝国、アラブ人(イスラム教徒)などの支配を受ける。他の宗教に寛容な(いや、だった、といい直すべきか)イスラム教の支配下、中世にはキリスト教徒とイスラム教徒、ユダヤ教徒は共存していた。今のスペイン人の風貌や、スペインの文化には濃厚にアラブ支配下のなごりが残る。
 やがてキリスト教徒による「レコンキスタ(国土回復運動)」の結果、イスラム教徒は追い落とされ、その余勢をかってスペイン人やポルトガル人は世界中に漕ぎ出して行った。いわゆる「大航海時代」の始まりだが、彼らは文明の名のもとにアメリカ大陸の原住民を奴隷化し、一方でアラブ人やインド人、中国人によって平和に交易が行われていたインド洋に乱入した(これらを称して「発見」という)。1506年にはスペインとポルトガルの2国で勝手に「世界分割条約」を結んでいる(南米でブラジルだけがポルトガル語が国語なのはこの条約の名残だったりする)。この過程で、スペイン人とポルトガル人が、日本人が最初に接したヨーロッパ人となる(1543年)。
 キリスト教の「聖戦」意識から、彼らはイスラム教徒の商船とみると攻撃した。現代のイスラム原理主義のテロリストと何ら変わりは無い。この攻撃性に対して、イスラム教徒側も攻撃性を増していった。植民地の桎梏といい、宗教を巡る文明間紛争といい、血塗られた近代・現代史の始まりは、イベリア半島にその始まりがあったといえるだろう(下に書くスペイン内戦も第2次世界大戦の前哨戦といえなくもない)。
 その後スペイン・ポルトガルの世界帝国は瓦解し、上記のナポレオンに占領されたり、激しい内戦後、フランコ総統のファシスト政権がつい最近(1973年)まで続くなど(あまり知られていないが、ポルトガルもほぼ同時にファシスト政権が樹立され、ほぼ同時に民主化した)、西ヨーロッパにありながら、いわゆる「西欧諸国」とは全く異なる歴史を歩んできた。スペインでは今でも少数民族のバスク人が独立運動を続けるなど(今日の講演によると、バスク人はローマ時代には既に存在していたらしい)、問題はあるが、両国揃ってEUにも加盟し(1986年)、「ヨーロッパ」の一員としての道を歩み始めた。

 以上ごたくを並べたけれど、せっかくヨーロッパに居るんだから、スペインやポルトガルにも是非行ってみたい、と発表のスライドに映し出されるスペイン海岸部の美しい風景や遺跡を見ながら思ったものだ。ドイツ人の観光客に独占させておくにはもったいない。

 「スペインに行こうよ」風の坂道を駆けながら言う行こうと思う  (俵万智「サラダ記念日」)


2001/10/30(火) 日記といふもの

この日記のタイトルはいうまでもなく紀貫之の「土佐日記」の書き出し、

 男もすなる日記というものを、女もしてみむとて、するなり。

から採っている(貫之同様、私は女性ではないが)。「~日記」というとやはりこれをすぐに連想してしまう。まあ、土佐日記は貫之が土佐国司の任を終えて京都に戻る(西暦935年)旅程の、いわば旅日記で(歌日記でもある)、この日記(??)と内容が全く違う。とかいいながら実は「土佐日記」をちゃんと読んだことが無い。
 「土佐日記」は名前としてポピュラーらしく、検索してみるとこの日記と同名のタイトル(「男もすなる日記」)をもつWeb日記がたくさんひっかかった。もっと考えてオリジナリティのあるタイトルつけるんだった。慌ててつけた題だから仕方ない(この日記を始めた当時は結構忙しかった。7月の日記参照)。

 僕の「日記」は内容的には日記というより随筆に近い(いや単なる雑文か)。純粋に日記である部分を除くと、吉田兼好の「徒然草」に近いかもしれない(昔の回想や故実、薀蓄臭い話があったりするし)。Web日記をつける方々も同じように感じるのか、この大塚日記プロジェクトにも「徒然なんとか」というタイトルの「日記」が結構多い。
 「徒然草」は全部読んだ。あれくらい人口に膾炙するものに、この日記がなるとはとても思えないけど。実際のところ、「徒然草」は兼好の生前は誰にも知られることが無かった(もともと人に読ませるつもりで書いたものではなかったらしい)。兼好の草庵のふすまの下張りに使われていた反古紙をはがして1つの随筆集にした、という説がまことしやかに行われたのも無理はない。

 今でこそ兼好は文筆(古文)の達人の見本のようになり、国語の教科書に必ず載ってるが、一方で有名な失敗談もある。
 下級公家の出身だった吉田兼好は、当時から歌人・文章家として知られていた。時の権力者・高師直(室町幕府の執事)は、美貌で京都中に知られた塩冶高貞の妻に恋慕し、兼好にラブレターの代筆を依頼した。美々しく飾り香をたきしめた紙に、長々と思いのたけを書きつける。
 しかし、その気合の入ったラブレター、長すぎて読む気がしなかったのか知らないが、手紙を貰ったその人妻は、受け取るや、読みもしないで放り出した。それを聞いた師直は激怒して兼好を「役立たず」と罵倒し、自分の屋敷への出入りを禁止した(成りあがり者の師直は、虚飾のために芸術家のパトロンみたいなことをしていた)。
 師直は今度は別の武士に代筆してもらう。その人物はうだうだと文章を書かず、ただ歌を一首書いて送った。

 返すさえ 手や触れけんと 思うにぞ 我が文ながら 打ちも置かれず
(突き返された手紙でさえも、あなたが触ったと思うと、自分の手紙ながら放っておくわけにいきません)

人妻はそれにはたった一言ではあるが、古歌の一節を用いて返事をしたので、一応コミュニケーション成立ということで、その武士は大いに面目をほどこしたという。「太平記」にあるエピソードである。
(覗き見までやった師直の横恋慕は、結局全く相手にされず、のちに師直の讒言によって塩冶高貞夫妻は幕府に追討され自殺することになる。もっとも追討は別の政治的理由があったともいい、また兼好のラブレター代筆自体を作り話と見る研究者もいる。このエピソードは江戸時代に翻案されて「仮名手本忠臣蔵」に使われた。なんだか現代のストーカーの話を見るようではある)

 上のエピソードを見ると、やっぱり長ったらしい文章はダメかなあ、と思う(特にラブレターはね)。
 僕はけっこう詩歌とか好きで(口語詩は照れくさくてちょっと苦手)、紀貫之ばりに、日記の代わりに毎日さらさらと歌の1つでも作れたらいいなあ、と思うんだが、性格的にくどくど説明するほうが向いてるのか、どうも無理っぽい。野暮でいかんなあ。

 なんだかんだで今日も長い文章になった。


2001/11/01(木) 三葉虫

 今日ある店で、一割引セールだったので、三葉虫の化石を買った。三葉虫、「みつばむし」と読んではいけません。「さんようちゅう」と読む。砂岩質の化石で、多分フランス産。今から三億年たらず位前のぺルム紀のものだと思う。値段は13.5マルク(800円前後)だった。僕が買ったものは大きさは5センチに満たない。
 三葉虫は古生代(5億7000万年前~2億5000万年前)に生息していた生き物で、身体構造がはっきりと頭・胴・尾に分かれ(昆虫と同じですな)、また縦方向にも左右の側葉部と中心部に構造上分かれているのでこの名がある。古生代を通じて栄え、だいたい世界中どこでも出てくるので、古生代の「示準化石」とされている。色々な形態に進化して種類も多く、でかいのだと靴くらいの大きさのがあるそうだが、古生代の終わりに忽然と姿を消した。
 どういう外観かというと・・・・。うまく形容できない。系統的には現代も生き残っているカブトガニに近いそうだが、こいつはカブトをかぶっていない。シャコの幅広で平べったいやつ、とでも形容出来るだろうか(シャコ同様水中に住んでいて、海底を這いずり回ったり、泳いだりもしたらしい)。節が多いという点ではフナムシにも似ている。化石になってもその特徴であるおびただしい体の節ははっきり残っており、はっきりいってかなりグロテスクな化石である。今にももぞもぞ動き出しそうだ。

 子供の頃は恐竜が大好きだった(今も好きだが)。いろんな本を読んでは恐竜の名前を覚えた。その関連で、古生物や化石のことも色々読んでガキのくせに結構詳しくなった。実際に発掘したかったんだが、道具が色々必要そうだし、うちは町のど真ん中にあったので、そこまではしなかった(要は小さい頃から古い物好きで、土いじりも好きだったわけだ)。大きくなってしたいことはもちろん「古生物学者」だった。
 初めて化石を買ったのは小学校5年のとき。500円する直径2センチくらいのアンモナイト(こちらは中生代の示準化石)だった。プラスチックの箱に入っていた。ある日実際に触りたくなって、箱をこじ開けてよくみると、アンモナイトの表面と裏面に「つなぎ目」のようなのがある。どうもプラスチックかなにかの模造品だったらしい。子供心に傷ついたものだ。
 その頃から僕の関心は自然史から人間の歴史に移りつつあったんだけど。
 
 「本物」の化石を買ったのはここに来てからだ。日本でもずっと欲しいとは思ってたんだが、結構高い。しかしヨーロッパでは豊富に産出する(それに対し日本は新生代の地層が多いうえ、海の真中だったので大きな生き物の化石はほとんど期待できない)からか、結構安い。やはりフランス産の古生代の魚の化石を買った。魚といっても、メダカみたいに小さい魚で、それが体を「く」の字に折り曲げた姿勢のままで、岩の中(昔の海底の泥だったんだろう)でぺっちゃんこになって化石化している。ちゃんと皮膚の範囲も残っている。これが12マルクした。
 今回の三葉虫が二つ目である。次はアンモナイトだな。子供の頃の夢だった、恐竜の化石を手にする日は来るんだろうか。
 そういえば、考古学やってます、とか自己紹介すると、よく「恐竜とか掘ってるんですか」と聞き返される。まあ発掘するのは似てるかもしれないけど、考古学が扱うのはあくまで人類が誕生して以降の範囲。旧石器時代(約400万年前~2万年前)の研究は恐竜も扱う「古生物学」に重なってくるけど(恐竜が絶滅したのは6500万年前で、そのころはネズミみたいな原始的な哺乳類しかいなかった)。しかし地球の歴史を1日に例えると、人類が登場するのは23時59分になってから(新生代の「末期?」)。そしてそんな人類史のわずかに800分の1が文字のある「歴史時代」である。しかしそんな短期間に地球環境を破壊するぐらいなんだから、人類って実はすごいんだなあ、という気もするけど。
 ともあれ、化石は人間の想像を超えた、はるかに時間のスケールの大きい過去そのものなのである。

 恐竜は今でも好きだ。映画「ジュラシック・パーク」には感動した(続編はさすがに飽きたけど)。恐竜のイメージを一変する映像の数々。鈍重なイメージだった恐竜が、いきいきと甦った。ちょっと怖くしすぎとも思ったけど。
 「大恐竜展」なる催しがあると、幼い頃そのままに、とんで見にいく。しかし1997年に上野で見た展覧会にはショックを受けた。子供の頃になじんだティラノ・サウルスやトリケラトプスではなく、聞いたことも無い、新発見の奇妙な形の恐竜がたくさん展示されていた。学問の世界は日進月歩である。自分も学者の端くれとして、心せねばならないと痛感させられたものだ。
 化石を見ていると、子供の頃の好奇心が甦ってくるような気分になれる。


2001/10/16(火) まだ生きていた

ここ数日書くことがない。うちにこもりがちだから仕方ないか。
今日は今年のプロ野球の総評でも書こうかと思っていたら、格好のニュースが入ってきた。張学良氏、療養先のハワイで死去、のニュースである。100歳だったそうだ。
張学良というと、中国近代史上の人物で、言ってみれば毛沢東や蒋介石に並ぶような人であり、え!まだ生きてたのか!?、というのが正直な感想である。歴史の教科書にも出てくる人で、日本にもある意味きわめて関わりの深い人物である。

張学良の父は張作霖といい、中国東北部(いわゆる満州)に勢力をはる軍閥の頭領だった。満州に権益を求めていた日本の関東軍(満州駐留軍)は、利用していた作霖が邪魔になったので、列車ごと爆殺し、その部下に首をすげ替えようとした。ところがぼんくらと見られていた息子の張学良は意外に傑物で、ライバルを射殺して父の跡を継ぎ(1928年)、中国国民党政府の指揮下に入って関東軍のいうなりにならなかった。結局関東軍は満州事変を起こして実力で満州を支配下においた(1931年)。張学良は中国に逃れ、国民党軍として対日抗争及び中国共産党ゲリラの掃討を続けた。
張学良が、あぶくのようだった普通の軍閥の頭領と異なり、その名を歴史に残すことになったのは、1936年に起こした「西安事件」である。国民党政府を率いる蒋介石を西安でだまして監禁し、中国共産党代表の周恩来と共に、共産党との内戦をやめて、連合して日本軍の侵略に対抗するように説得したのである。その結果、てんでばらばらだった中国は曲がりなりにも国を挙げて日本の侵略に対抗することになった(国共合作)。
事件後、張学良は逆に蒋介石に監禁されてその勢力を失い(共謀者は殺害された)、第2次世界大戦後、国民党が共産党に敗れて台湾に退却すると張学良も台湾に連れ去られ、蒋経国(介石の子、中華民国総統)の死ぬ1986年まで、50年に及ぶ軟禁生活が続くことになる。行方が知れず、中国の内戦のどさくさで死んだものと思われていたが、1991年、名誉が回復されて公の場に現れた(90歳の誕生日パーティーだった)。中華人民共和国ではそれ以前から抗日の英雄として称えられていた。

ここでふと思い出したのは、最近にわかに脚光を浴びているアフガニスタンの元国王である。1973年にクーデタで国を追われ今はイタリアに住んでいる。これまた、まだ生きてたのか、と思った。アメリカはターリバーン後のアフガニスタンの統一政府の首班にどうもこの人物を考えているようだが、そううまくいきますかどうか。現に1992年、ソ連の傀儡だった共産政権を共闘で倒した各勢力が分裂して、今に続く内戦を引き起こしているのである。
内戦の続く国が、元国王なんてものを担ぎ出してうまく行った例を知らない。カンボジアではシアヌーク元国王が担ぎ出されたが、本人は全く無責任で、面倒が起きると政治をほっぽりだして中国に逃げる始末。結局政治の実権はベトナムの息のかかった共産党政府が実力で握っている。アフガニスタンももし北部同盟がターリバーンを駆逐し得たとしても、またまた内部分裂が起きるのではないかと思う。結局実力で圧倒する政権でないと国がまとまらないだろうなあ。

かつての支配者が外部の力を借りてのこのこ現れるのは醜い事この上ないが、かつて歴史の帰趨を握っていた人物が、ただの老人として長寿を全うするという話は嫌いではない(日本では関ヶ原の合戦に敗れた宇喜多秀家の例がある。彼は50年間を流刑先の八丈島で過ごし、関ヶ原の勝者の誰よりも長く生きた)。日本軍に満州国皇帝に担ぎ出された愛新覚羅溥儀の生涯を描いた映画「ラスト・エンペラー」も、最後はそんな感じでしたな。
本人はどういう心境でこの長い歳月を生きてきたのだろう。昔の活躍を懐かしみ、あるいは悔やむのか、それともともかくも生き長らえた事実ををただ受け入れるのか。
張学良氏の御冥福を祈ります。


2001/10/08(月) 考古学数題

たまには自分の専門分野にかかわる最近の話題を。

①3800年前の商取引メモを記した粘土板文書 トルコで出土 (朝日新聞10月5日)
トルコ共和国中央部にあるカマン・カレホユックでの発掘で3800年前の商取引メモ(取引する銀や小麦の量と商人の名前が羅列されていた)と見られる粘土板文書が見つかったという話題。当時メソポタミアからアッシリア人の商人が鉱物資源を求めてアナトリア(今のトルコ)にやってきて、常駐の商業居留地を設けて地元の人々と交易をしていた。このメモはまあ伝票かメモのようなものであろう、という。またアッシリア商人の文書の出土した場所としてはカマンは今のところもっとも西(つまりアッシリア人にとっては奥地)である。アナトリアで文字が使われ始めるのは、この外来のアッシリア商人によってが最初である。
カマン・カレホユックでは1990年にもやはりこういたメモらしいものの破片が一点出土している。普通こういう文書は一箇所に保管してあるものだが(だから大抵は一箇所からどかどか出てくる)、カマンで見つかったものはアッシリア人の商人がうっかり落っことしたものなのかな。
同遺跡では戦争で焼き払われたと見られるアッシリア商人時代の建物から数十人の焼死体や、大きな穴の中からやはり数十人分の遺骨が出土していたりして(戦争による大量虐殺?)、アッシリア商人の活動、すなわちアナトリアの歴史の曙を研究する上で貴重な成果になるだろう。
中近東は人類でもっとも古い文字が発達した地域だが、その最初はどうも商業取引のための数字や、品物(羊や小麦)を表わしたものだった。中国の漢字の起源が占いに使われた甲骨文字だったのと好対照ですな。数字にうるさい中近東の伝統を表わしているようで、面白い。

②中国・集安の高句麗壁画盗掘さる (朝鮮日報 10月4日)
中国・集安にある高句麗の王陵と見られる古墳から壁画が盗掘され持ち去られた。このニュースを大々的に伝えているのは、自らを高句麗人の子孫と信じる韓国の新聞だった。この壁画には高句麗人の服装をした西洋人が描かれていたり(本当かよ!)、現代の韓国相撲に通じる(というか、日本やモンゴル相撲にも通じるんじゃないか?)画像が描かれているそうで、高句麗の歴史を知る上で重要なのはもちろんである。この遺跡はほとんど管理されていなかった、と朝鮮日報は批判的に伝えている。
朝鮮日報の社説を読んでいて、おや、と思った箇所が1つ在った。中国公安当局はこの盗掘の背後に韓国人がいると見ているそうだが、それにたいしてこの社説は「自国の文化財を破壊されても黙って見ている我々に疑いの目まで向けられているのである」と述べる。え?自国の文化財?高句麗は確かに現在の朝鮮(韓)半島に繋がる文化を持っている。しかしそれなら程度の差こそあれ、日本だってそうだぞ(日本には大量の高句麗人が渡来・亡命してきた)。過去の文化財を「自国のもの」といいきるのはいかがなものだろうか(同様なことはモスクワにある「トロイの黄金」や大英博物館の「エルギン・マーブル」をめぐる論争にもいえることだが)。
しかも高句麗は単純に朝鮮半島の文化であるとはいいがたい。中国東北部(いわゆる満州)にいた騎馬民族の影響が濃厚にある。そういう意味では「中国の文化」といっちゃってもいいわけだ(現に件の遺跡は中国領内にあるんだし)。一方で、北朝鮮では、そのような北方民族(例えば女真・満州人)に繋がる、複数の文字をもつ苗字は忌避されるというし、韓国の歴史上長らく北方民族は忌避・蔑視の対象だった。「小中華」を自負しながらも、「国際的・世界史的に重要」な文化だった高句麗も自分の祖先としたい韓(朝鮮)民族のジレンマが垣間見える。
ちなみに北朝鮮内に残る高句麗の壁画古墳は現在、世界文化遺産として登録申請中である。北朝鮮ではこれらの遺跡は「民族の栄光を示す」ものとして手厚く保護されている。

③アフガニスタンで盗掘横行
今日アメリカ軍がアフガニスタンへの攻撃を開始したそうだが、そのアフガニスタンで難民による仏教遺跡の盗掘が横行しているという。まあ今に始まった事じゃないんだが。ターリバーンもバーミヤンの大仏を壊さずに、日本にでも売って、その金でアメリカに対抗できる兵器でも買えば良かったのにね。ターリバーンの主要輸出品である阿片と同じくらいの価値はあるかもよ。
バーミヤーンの大仏といえば、中国で全く同じもの(高さ71m)を再現する作業が進んでいるそうで、今のところ頭だけ完成しているそうだ(まあバーミヤーンの大仏はかなり以前に既に顔が削がれて居たんだが、ここでは顔も復元したらしい)。
こういうと不謹慎かもしれないが、アメリカの攻撃は半年遅かったというべきか。

④40箇所での「ねつ造」認める 
旧石器時代の発見をねつ造したとされる東北旧石器文化研究所の藤村新一・前副理事長が、自分の関わったほぼ全ての遺跡でのねつ造を自白したという。30キロ離れたところで見つかった石器片が接合されて話題を呼んだ袖原3遺跡などは、遺跡自体がねつ造とわかった。まあそうだろうとは思われていたようだが。ばかばかしさに声も出ない(他人事にしてはいけないんだが)。
数十キロ離れたところの石器を接合してみようなんて、よく考えついたなあ、ずいぶんよく出来た偶然だな、と「発見」当時は思ったものだったが、すっかり騙されていたわけか。
僕は旧石器時代研究は門外漢だが、この時代は石器・骨角器以外に遺物がほとんど無く(石器自体素人目にはただの割れた石にしか見えない)、量も極めて少ない(当時の日本列島の人口が多くても1万人くらいだったといえば、遺物の量も想像がつくだろう)。発掘もものすごく精密に行われ、石器一点が出た地層(多くは火山灰層)そのものが重大な証拠になる。藤村氏の「発見」に疑問を呈する研究者も、昨年の毎日新聞の報道以前すでにいたのだが、「やっかみ」ととられるのが嫌なのか、それほど声高ではなかった。「最古」「最古」を連呼するマスコミにも流されていたのである。
一時は日本の旧石器時代は60万年前までさかのぼる、とされていた(中国や韓国の新聞は「自国の文化を古いものとしたがる感情の現れ」なんて報道していたけど、そりゃあお互い様だろう)。しかし、以上の結果、確実なのは(「ゴッド・ハンド」藤村氏登場以前の調査・研究による)二万年前まで、ということになる。この十数年の旧石器時代研究の多くは無に帰した。



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